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 引きずりし跡残りたる床なれば亡きようにとは思はざりしか

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奴隷の韻律を超えて、あるいは未来へのメルクマールとして
 
 小野十三郎は「短歌的叙情」の中で、徹底的に日本的な(あるいは世界的に)「叙情」を嫌った。
 その「韻律(リズムのようなもの)」の中に奴隷的なものが潜在しているとして。
 それは庶民=大衆を戦争に巻き込み、しかもこぞってその動きに熱狂した日本文化の担い手たちに対する大きな失望をその要因としていただろう。
 無論、彼自身の個人的な生い立ちもそれを過剰にさせただろう。
 
 けれども、吉本隆明が見なしていたように、日本の大衆は遥かに長い歴史の中で為政者という支配層を、それになびき馴致されるようでいて、決して心底絡めとられていたわけではない。
 その心情はまさに「奴隷」のようでありながら、次元の違う部分ではるかに大きなものに属していた。
 それは西欧で育った「個人」という単位で括れない、自他の区別を超えた境地のようなものである。
 
 小野は個人は「憎悪」を焚き木にしなくてはならない、と思っていただろう。それは彼自身の優しい心根の底に巣食っていた「恨み」のようなものに根を下ろしていただろうから、それは彼の生きるエネルギーであると共に、大きな痛みでもあったに違いない。
 彼はその刃の矛先を「短歌的叙情」に向けた。そのリズムにある惚けたような安穏さ、鷹揚さ、広さ、安普請の感動、、、。
 けれども、敵は小野のパンチを受けながら、何一つ疵にはしなかった。
 なぜなら、その底には個人の意志の薄弱さ、浅薄な教養という薄皮に覆われた巨大な無意志の海が広がっていたからだ。
 吉本はそれを「大衆(の自立的課題)」と呼び、そこに時間を超えて通底し、世間的な関係を超越するものを希望として感じていただろう。
 
 我々は「個人」を養わなくてなならない。疵、痛み、感情の歴史と淀みはその心に沈んで積もるからだ。
 けれども我々は「個人を超えたもの」に開かなくてはならない。そこにしか安らぎと許しは根を張れないからだ。

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 2020年7月7日
 
 依然として吉本隆明を聴いている。
 語り口は訥々として、ある意味要領を得ない。
 ネットで検索すれば、毀誉褒貶の多い思想家、詩人。
 最晩年に「福島原発事故」後、「『反原発』で猿になる」など、原発推進を表明するなど、物議を醸した。
 やはり原著に当たらねば、と図書館で全集の中、「共同幻想論」「最後の親鸞」とあと適当に詩集を見繕って5冊借りる。
 
 Youtubeで山本哲士という人のチャンネルを見つける。
 彼はずっと吉本を聞き書きし、吉本をフーコー、ラカンと並ぶ世界最高峰の思想家と評す。彼自身も教育その他諸々の泰斗
 その動画の中で面白いものを見つけた。
 日本語を英語やフランス語のような主語制言語と違って述語制言語として、全く違った論理性を持つものと解説している。
 山本さんはそこに行き詰まった世界思想の先を開く道を見ているようだ。
 もちろん、吉本の難解さと同様、山本さんの話の展開もまた、なかなか僕の理解が及ばない。
 僕は吉本の語りを「詩人の言葉」と書いたけれど、吉本の世界がこの「述語制言語の論理」で貫かれているとしたら、これは是非、吉本の思想を理解する鍵として、その一端であれ理解してみたい、と思った。
 さっそく、奈良の図書館の帰り道、近くの図書館に寄って、山本哲士の「吉本隆明の思想」を借りる。
 なんとなくの予感だけれど、小野の「短歌的叙情」、吉本の「大衆(の原理)」そして、この日本語の「述語制(の論理)」に一本のつながりを感じる。
 
 時に、今回の都知事選はポピュリズムの圧勝だった。
 権力者やそれに迎合する既得権益集団、マスコミに大衆は良いように操られ、(奴隷の)無知そのもののように見える。果たしてその底に、次元を超える「強かさ」のようなものが潜んでいるのだろうか。


 
 今日の短歌
 
 現世(うつしよ)のコロナのマスク明らめしこと目は欺く口元に素顔隠して
 
 吉本を抱えて帰る道すがら心を破(わ)ってというように咲く花石榴
 

 多い日は三度見かける散歩道の麗人我を見守る半神の仮すがたとする

 

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 2020年7月3日
 吉本隆明の講演を聞いている。183もの講演がデジタルアーカイブとして保存されているのだ。
 生の吉本の声を聞くことができるのが、思想家のリアリティを受け取れる機会として、著作を目で追うこととはまた別な価値を持っていることを強く感じる。
 おそらくそれは文字に記された思想よりももっと深い理解をもたらす可能性を持っているに違いない。
 語気や間等々、文字面には決して感じることのできない偉大な思想家の思考の流れをそれは伝え遺している。
 
 それにしても吉本がその思想的基盤として持っているマルクスとかヘーゲルとかは、まったくにして僕の思考の基盤ではないことを思い知る。
 それだけに、そういう状況的な違いを超えて、なお普遍的な意味での彼の思想を理解できる貴重な瞬間をもたらしてくれる気がして、その録音に耳を傾けている。
 
 おそらくそれは小野十三郎が「奴隷の韻律」として追求したものと深い関係を持っているのだ、と僕は直感する。特に、吉本が「大衆」という存在を非常に大きく捉え、意識しているところに。
 
 今日は「自立の思想的拠点」と題された講演を聞いた。
 講演の最後で、吉本は皮肉っぽい調子で、いわゆる知識人というものが戦争であれ平和であれ自分自身の表現の砦に座して「スルスル」とその状況をすり抜けてきたことが、今の思想の基盤になっている、つまり「自立」という思想的拠点となっていることを打ち明けている。
 そして目の前の聴衆に向かって、すべての人が知識人であり、そういう危うい位相に存ることを訴えている。
 この主張と小野のあらゆる表現者を敵に回すような、表現の中に潜む「奴隷の韻律」の告発は、やはり深く共通している、と感じた。
 
 それは半世紀の時を経て、今という終末的状況を迎えている世界の中にいる僕にとっても、まったく同じ剣先を突きつけてくる。
 
 僕にとって新鮮でもありまたやや滑稽でもある感じがしたのは、吉本の世界観というものが、如実に世界を「階級的闘争」の現場として見ているというその部分だ。ある意味そういう極めて単純な類型化から(この1960年代という時代において)吉本自身が逃れ出ていないことに、とても不思議な感覚に襲われた。
 今、2020年というまさに大きな時代の終焉と新たな時代への転換点という予感にあふれた時点に生きている僕から見て、そういう階級的闘争のような類型化はまったく古色芬々とした滑稽な世界観でしかあり得ない。
 また、知識人、大衆などという類型化も(もちろん吉本は個人のうちにその両面の要素を見ている訳だけれど)、とても堅苦しく、不自由な感じで受け止めた。
 まるで吉本自身がその硬直した思想に苦しんでいるかのような気分だ。
 講演の中で次第に熱を帯びて、一瞬声を荒げたり、自嘲してみたりする彼の調子に、決して穏やかではない、怒りのような興奮が感じられることに驚いた。
 
 引き続き、彼と共に彼の思想を「苦しんで」みようか、という気分でいる。
 

 

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 2020年7月2日
 日記のようなもの
 夜、家に帰って息子に本を読んだ。「ぼっこ」という、なんだろう、お化けの話なのかな? ずっとシリーズで読んできた「妖怪一家九十九さん」と同じ富安陽子さんのお話だ。
「九十九さん」シリーズは少し低年齢向けだったようで、言葉遣いがとても易しいお話だったけれど、この「ぼっこ」は結構本格的な小説のように感じられた。まだ冒頭の一章を読んだだけだけれど、なかなか読み応えがあって、これから毎晩続きを読むのが楽しみだ。
 
 さて、本を読む前に洗濯をした。息子は毎日下着を何枚も履き替えるので、二日もすれば下着の替えがなくなってしまう。だから、ほとんど毎日洗濯をするのだけれど、今日、洗濯をして(というか洗濯機を回して)洗い上がった洗濯物を干していて、その時思ったのだけれど、僕は洗濯が好きだな。
 汗をかいて脱ぎ捨てたTシャツや料理の時に使ったフキン、タオル、まだ使い汚した記憶の新しい、それらの汚れ物が、綺麗になって、いい匂いになっている。それを丁寧に干すのが好きだな。
 アイロンがけはしないので、干すときにできるだけシワを伸ばす。襟をヨレヨレにならないように引っ張る。ボタンもかけて干す。ズボンの裾もパンパンとシワを伸ばす。今晩は2回洗濯機を回した。台所の奥の物干しが洗濯物でいっぱいになった。
 
 さて、大変なものを見つけた。このところずっと桑原武夫と小野十三郎を読んでいる。関連の文章を探していて、ネットで「J -Stage」というサイトを見つけたのだが、そこに中村完という人の書いた「小野十三郎・吉本隆明 -戦後叙情論批判」という評論があった。(僕が見つけた大変なものというのは、このサイトではない。)
 冒頭に「小野の主情的な問題設定を吉本が構造論的に解明するようなところがあった」とあったので、上と下、難しい言葉に閉口しながら読み進めた。あんまりわからなかったけれど、とにかくもこれは吉本隆明も読まなくては、ということになってしまった。
 吉本隆明は「共同幻想論」や詩を含めて、何冊か読んだ記憶があるけれど、すっかり忘れている。
 それでネットを探るうちに、大変なものを見つけたのだ。
 それは「吉本隆明の183講演」という「ほぼ日刊イトイ新聞」に収録されている、吉本の講演の録音だ。183講演、1960年台から2008年までの吉本隆明の講演のデジタルアーカイブなのだ。
 生きてる間に全部聞けるかな、というくらいのボリュームだ。
 今日は一番最初の「芸術と疎外」を聴いた。とても面白かった。
 そろそろ、桑原と小野の次の本を借りようと思っていたので、そのときには吉本隆明も借りることになりそうだ。
 この頃、塾では生徒を教えるのが主なのか、自分の読みたい本を読むのが主なのか、だんだんわからなくなってきている。
 
 もう一つ、この頃気に入って聴いている音楽。Ana Vidovicという女流のギタリスト、美人なだけか、と思っていたけれど、これは大変なヴィルトーゾだ。
 超絶の技巧派。ギターをまるでピアノのように弾く。彼女のように粒の揃ったシャープな音色は今まで聞いたことがない。間違いなくジュリアン・ブリームやジョン・ウィリアムス級のギタリスト。
 バッハはグールドのようだった。一番気に入ったアルベニスのアストゥリアスをどうぞ!

 

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「その」という指示代名詞が連れてくる曖昧が好き「かな」や「や」よりも



「かな」や「や」はあらかじめ期待する詠嘆だよねー「だよねー」という依存の言葉に似て

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 ぽっこりとかしらもたげよわが言葉レイキでならされたその地面から

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 2020年6月21日
 小野十三郎の「短歌的叙情」読了。
 小野の問題意識は短歌ひいては文学全般、そしてさらに芸術を含む人間のあり方全般に広がっている。
 短歌も俳句も(俳句はどちらかと言えば、まだ救いのある詩形式と捉えているところもあるようだけれど)ドイツ浪漫派の詩も絵画も全てが「何ものかに憑かれた精神」の現れとして批判される。
 それらは「短歌的叙情」「奴隷の韻律」「宗教的オブスキュリティ」と断じられる。
 
 言葉も難しいし、観念自体もやや曖昧な部分がある。
 確かなのは、まず小野個人に感覚的な嫌悪感、直感的な拒絶感、(小野はそれを「憎悪」と表現したりする。)がある、ということだ。
 巻末の富岡多恵子の「解説」によれば、それは小野の生母との関係が影響しているのかもしれない。
 
 とにかく、小野には「何ものにも憑かれない精神」を表現する詩が理想としてあって、それは、今のところ達成されてはおらず、やがて「リアリストの苛酷な残忍な蓋然性」によって達成されるだろう、という希望(?)があるのだ。
 
 さて、ぼく自身の感想を言うと、小野が「短歌的叙情」として嫌悪する集合意識的な感情(例えて言えば「日本人のこころのふるさと」のようなもの)にぼかしてしまったり、預けてしまうような詠嘆性を、いろいろな場面で、ずっと感じていた。
 そういう曖昧さに逃げる感じは、安易に言葉に形容し難い感情や意識を、ずっと抱え続け、ある意味耐え続ける個人の強さにつながらない気がしていた。
 もっともっと、共感し難いものを、ぼく自身はずっと抱えているし、おそらくは誰もがそういう孤独を抱えているはずで、それを月並みな共感を誘う感動に貶めたくないと感じ続けていた。
 要すれば、ぼくには「わかられてたまるか」というような強がりがあるのだ。
 けれども、同時にそういう孤独を持つ個人としての共感はあるだろうし、あってほしいと願いたい。
「決して寄り添うことなどできない」とわかりつつ、「寄り添いたい」と願い続けるように。

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 石を穿つたった五キロばかしの石に穴を穿つぶっ倒れるほど消耗するまだ穴は開かない

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間違えて感動しているのかもしれないその時の涙は本物それとも