なぜきみをこんなにすきかきみだけがこわがらないでぼくをみつめる
今日の短歌
学校や会社など、人が集まって何かをしている場所では時刻や日付はなくてならないものだ。
テナントを借りて塾をやっていた頃は、講師の給料日や月末の集金日、生徒の定期テストや塾便りの締め切りなど、もっときっちりと意識していたはずだけれど、もうその感じも忘れてしまった。
今はどこかに勤めているわけではないし、人と組んで決まった仕事をしているわけでもないので時間を気にする機会は少ない。それこそ「毎日が日曜」だ。
先日、久しぶりに一日アルバイトをした。遠方で集合時間が早朝だったので、電車の時刻を調べたり前日から色々と準備をして、それだけで疲れ果てた。電車も超満員で会社勤めの人は毎日このストレスに耐えて仕事をしているんだな、と改めて感心した。
そんなある意味自由で悠々自適の暮らしだけれど、それでも息子の通う施設が休みの土曜、日曜、燃えるゴミの収集日の月曜、木曜は忘れない。時々間に合わなくてゴミが溜まってしまうが、、。
ああ、それとなじみのカフェでは必ず土曜のランチを食べるのが楽しみだ。
七の付く日が定休の店に来て今日の日付に思い至らん
今日の短歌
今、なぜか韓流ドラマにハマっている。昨日見終わったのはネットフリックスの「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」というコメディタッチの裁判物。主人公のウ・ヨンウというのは自閉スペクトラム症を持つ弁護士。彼女が持ち前の驚異的な記憶力と集中力を発揮して裁判を勝ち抜いていく。自閉スペクトラム症特有の音に過敏であること、特定のこだわりを持つこと、他人の表情や感情をよく理解できないことなど、コミカルではあるがかなりしっかりと取り上げている好感の持てるドラマだった。
彼女は鯨やイルカが大好きでその話題になると他のことは忘れて夢中になってしまう。そして難しい案件を突破するアイディアを思いついた時、前髪を軽やかに吹き上げる風が吹くのだ。
恋人と手を握るのも57秒しか続けられない彼女がついには自分からキスを求めるシーンは名画にも匹敵する。
実はウ・ヨンウを演じるパク・ウンビンという女優、高校生の頃の彼女に似ている。
ちなみにヨンウの好物は海苔巻き。彼女の父親は海苔巻き専門の食堂を営んでいる。無性にキンパが食べたくなるドラマでもある。
近づけばきみは香し早春のそよと吹きすぐ風の如くに
今日の短歌
ユズの木にユズの実なりきカキの木にカキの実なりきそばで火を焚く
今日の短歌
あふむけて父のあぐらに寝ころがり小さき我は髪洗われん
夜、冷えた身体で布団に潜って身を硬くしながら思った。あの頃、なんと僕は小さかったことだろう。
二歳から小学二年まで四人家族で団地に住んでいた。小さな台所と四畳半と六畳の和室。風呂があって木の湯船だった。
五階建ての集合住宅、一棟に階段が三列あって一列の階ごとに玄関が二つ。一棟で三十軒の2Kの家。
初めの頃は一棟のいちばん端の家の窓の外に木の台があって、その上にピンク電話あった。用があればそこに行って電話をかけたし、かかってきた電話はその家の人が呼びにきてくれた。
小学校に上がる頃に団地全体に内線電話が付いた。団地の中に交換台があって交換手の女の人がいた。母が婦人会の会長をしていた関係か内線番号が1番だった。
小さい頃僕はよく高熱を出した。そして悪い夢を見た。
僕は近くの公園にいて家に帰ろうとしている。ふと見上げるとあるはずのベランダと窓が、僕の家だけない。壁だけになっている。怖くなって走って階段を駆け上がってみると玄関もない。僕の家だけなくなっている。そんな夢だった。
そう、その2Kの家の内風呂の小さな木の湯船に父と二人、なんなら父と兄と三人浸かっていた。そして、父のあぐらに寝転んで、髪を洗ってもらった。
あの頃、僕はなんと小さかったことだろう。
今日の詩
無題
頭の上の電灯を見上げていたら
ときどき部屋中が淡い煙に満たされている
魚を焼いた後でもないのに
それはきっと
空気を構成する窒素や酸素やアルゴンや二酸化炭素の
分子が見える一瞬に違いない
それらの分子は
大変なスピードで飛び回っていて
分子そのものも激しく振動しているのだから
けぶったように見えるのは
何兆分の一秒という
瞬間を見ているのだ
瞬間は光を発しているだろうか
いや光さえとまって見えるくらいの
短い時間なのだから
光が目に届くわけがない
どうやって見ることができるのか
見ることの不可能の瞬間を
だからこの世は夢に違いない
毎夜夢を見るとき
僕は光もなしにそれを見ている
今日の短歌
寒天の頂に北斗見上げつつゴミ当番の暮れ朝まだき
この辺のゴミ回収は燃えるゴミが週2回。週ごとに当番が回ってくる。十二軒で一つの班になっているので、十二週に一回ゴミ当番をすることになる。
引っ越して7年になる今年、初めて一年の最後の当番になった。月曜と木曜が回収日なのだが、年末年始の休日の関係で今年の最後の収集日は今日、二十九日の日曜になった。まさか日曜がゴミの日になっているとは前日まで気づかず、近所のおばちゃんに教えてもらわなかったら、一年の最後に近所迷惑で恥ずかしいことになっていただろう。
スマホを朝の5時半にセットして寝た。この住宅地は周り中年寄りだらけでみんな朝が早いのだ。その先を越してゴミのネットを広げておかなくてはならない。
なぜだか不思議にこんなときは、アラームが鳴る二、三分前に目がさめる。これは若い頃からのことで、僕の無意識の底にはきっと体内時計があるに違いない。偶に寝過ごすわけにいかない大事なことがあって目覚ましをセットするときには、一緒にその時計もセットするのだ。
5時半はまだ暗い。とても朝とは思えない。昔、東京で新聞配達をしながら劇団の研修所に通っていた頃を思い出す。そのときは朝刊の配達準備をするのに夜中の3時には配達店に行ったものだ。一人暮らしの寂しい朝、暗いだけで気持ちが萎えた。
今朝もそんな気分になったので、隣の部屋で眠りこけている息子を揺り起こして一緒に行くことにした。
二人ともたくさん着込んで外に出る。同じ布団で寝ていた3匹の猫たちも玄関まで出てきて見送っている。
無理やり起こされてブツブツと文句を言っていた息子は、車のフロントガラスが凍っていると言ってなぜかはしゃいでいる。起こして正解、この暗がりでも寂しくないし、少し楽しい。
二人で道の真ん中を歩いた。ゴミのネットを広げて帰り道、悴む手をこすりながら思わず空を見上げると北斗七星が真上にあった。
今日の短歌
七十爺いがアラフォー息子と同衾す猫三匹もみんなご一緒
明らかに異常な絵柄だ。不道徳でアブノーマルに見えるかもしれない。穢らわしいと感じる人もいるだろう。
このシチュエーションを容易にわかってもらえるとは思わない。
息子には知的障害があって幼児と大人が混在する。この頃はいっぱしの理屈も言う。まるで筋は通っていないが。
夏は暑苦しくてひっつかれるのはごめんだが、冬になると時々深夜自分のベッドを出て、僕の部屋にやってくる。布団の中や上にいる猫たちを押しのけて、ついでに僕も隅に追いやって、彼は布団に入ってくる。そしてすやすやと指を吸いながら眠ってしまう。
僕にはそれに抗う術がない。そのあまりの自然さと当たり前の感覚に思考する力を失って、僕はそれを許す。
ついでに息子と一緒に寝ていた(いつも彼と一緒に寝る)黒猫もやってきて、間に入れろと僕の鼻を引っ掻く。
先に布団の中にいた小夏は低く唸って文句を言うが、ジジはお構いなしに潜り込む。もちろん二人の足元にはライが寝そべっている。
かくして僕の古くなってスプリングがギシギシと音を立てるシングルベッドはウクライナ民話の「てぶくろ」のように「生き物」で満員になる。あったかいことこの上ない。
世の人の数だけ幸せの形がある。
今日の短詩
指先がぬくいと裸足でも寒くない猫に囲まれ台どこで皿を洗う
目が覚めると布団が重い。猫が全員乗っかっている。7時をすぎているので、大急ぎで階下に降りる。人と猫のトイレを掃除してゴミ出しする。木曜日は「燃えるゴミ」の日だ。
昨日はオンラインじゃない生徒が来る日で、IPadのお絵描きアプリの話で盛り上がって夕飯が遅くなった。洗い物が面倒になって桶に浸けたままにした。
朝のご飯を要求する三匹の猫に囲まれながら皿を洗う。下着のままで降りてきたので裸足の足が冷たかった。
水も冷たい。ちょっとだけタンクのお湯の方の蛇口を開くと、しばらくして湯気と一緒に熱いお湯が出てくる。触れただけでまるで湯船に肩まで浸かったよう。裸足でも平気。
なんだか腰湯をしたくなったので、朝から湯船にお湯を張る。なんという贅沢。
今日の短歌
昔から土曜の昼間が好きだったディズニーランドのある金曜の夜より
小学生の頃の僕は神経質で気が弱くて、引っ込み思案の子どもだった。土曜日が好きだったのは何よりも給食がなかったからだ。
特に好き嫌いがあったわけではないが、人と一緒に食事をするのが苦手で、緊張すると食べ物が喉を通らなくなる。よく5時間目まで残されて、一人給食と格闘するという地獄を味わった。
中学に上がって給食がなくなり、昼食は弁当か業者が売りにくるパンと牛乳になって、僕は救われた。そして、いつの間にか人と食事をするのが苦にならなくなった。
金曜で思い出すのは住んでいた団地の市場前の広場にあったカラーテレビだ。それは昭和の三十年代でおそらくカラーテレビのある家はよほどの金持ちで、むろんその団地にそんな家はなかった。
金曜の夜8時には、街灯のように2メートルほどの高さに設置されたそのカラーテレビの前に団地の家族連れが集まった。隔週で交互にプロレスとディズニーランドをやっていたのだ。僕も父に連れられて、よくディズニーランドを観に行った。
そんな金曜のある夜、事件が起こった。晩御飯を食べてから父と一緒に市場まで行こうと玄関に出た時、何の拍子か父の脇をすり抜けて外に出ようとした僕の左の目に、父のタバコが当たって火傷をしたのだ。幸い火傷は瞳ではなく白眼だったので大したことはなかったのだけれど、それを機に父はパッタリとタバコを吸わなくなった。
「毎日が日曜日」になったはずの今でも、土曜日は何とはなしにウキウキとした気分になる。
明日という日に何も課されたもののない開放感、それはまさしく自由の味わいだった。