アナログ、デジタルの微妙な関係、あるいは文学の存在意味について
我々が(神から?)授かったものであり、この世の意味の全てである生命とは、究極の連続的(アナログな)時間的現象である。そして、人は音楽や舞踊、演劇という時間的な表現を除外すれば、主に(数学を含めて)言葉(記号)という非連続的、離散的な(デジタルな)解釈を通して、今日の(科学)文明を築いてきた。
離散的な解釈は、どこまで行っても連続的にはならないように見える。だから我々の文明には、真の存在の解明において、その出発点に決定的な弱点があるように見える。つまりそれは使用目的にそぐわない道具の問題であるように見えるのだ。
しかし忘れてならないのは、その「使用目的にそぐわない道具」である言葉に、もう一つの側面があることだ。
言葉はデジタルな記号であるとともに、「音」という連続的なものでもある。
我々は言葉を「記号」というデジタルなものとして解釈するとともに、必ず「音」というアナログなものとして受け取る。
一見、言葉は音を伴わずとも何らかの意味を表しうるように思われるがしかし、如何に黙読という手段を洗練させようとも、我々の脳は最終的に言葉を音として再生し(まさに「再び生まれさせて」)その意味を得る。
つまり「意味」とはどこまでも連続的なもの、アナログなものなのだ。
考えてみれば、音とは実に不思議な現象だ。音は究極的に「波」というアナログ、連続的な現象なのに、例えば言葉としてデジタル的な機能を持ちうる。音の連続的な変化を我々の脳はデジタルな言葉として扱うことができる。
(言葉を介しない音楽でさえ、「音階」というデジタル化を行なっていると見ることができる。ピアノなどの鍵盤楽器、ギターなどのフレットを持つ弦楽器はある意味デジタルインストゥルメントなのだ。)
我々の脳は連続という無限の豊かさからデジタルという限定的なブロックを切り取ることができるのだ。
(と同時に、我々の脳は単なるデジタル情報を豊かなアナログ現象に飛躍させる力も持っている。たとえば、単なる静止画の集合であるパラパラ動画はいわゆる「残像現象による錯視」などではなく、デジタルをアナログに飛躍させる脳が振るった「魔法の粉」の為せる技なのだ。)
その作用が便宜的なものなのか、何らかの必然的過程であるかと言えば、間違いなくそのアナログデジタル変換の総合的なプロセスが、意味の生成において決定的な役割を担っているのだ、と考えざるを得ない。
さて一見、量子的飛躍(クオンタムリープ)のダウングレード版であるアナログーデジタル変換が意味の生成において決定的な役割を担っているというのは、一体どういうことだろう。
それはまず、アナログーデジタル変換というダウングレードとデジタルーアナログ変換というアップグレードが、いささかの毀損もなく完璧なプロセスとして機能するという前提が必要だ。
アナログ的連続はすなわち時間的連続であるから、時間という制約を受けざるを得ない。その制約を乗り越えるために、デジタルへの変換が必要だったと考えてはどうだろうか。
アナログが生であるようにデジタルは死である。
デジタルというストップモーションがこの世的な伝達を可能にする。伝達される間、時間の経過はなくそこに断続はない。
つまりデジタル的な部分というのは本来的に不可視であり、非存在なのだ。
そのように機能するデジタル的言葉によって、分離された存在である我々は「意味」を共有し、ある意味初めて時間を超えて協働することができる。
しかし、そのように記号(言葉)が機能するためには、先に書いたように理想的に変換がなされなくてはならないが、それはあくまで理想に過ぎない。
つまり問題は変換に伴う「毀損」なのだ。
少しでもそれがあれば、そして間違いなくそれは起こってしまうのだが、デジタルは不可視ではなくなり、非存在ではなくなる。
今日、我々が抱える問題の根っこは全てここにある。
変換の不備によって、可視となり非存在ではなくなった「デジタル的言葉」が不当に価値化されてしまっている、ということだ。
ここに文学の存在意味がある、と僕は考えている。
その毀損されたアナログとデジタルの無限の乖離に橋を渡そうという営みが、文学である、と定義するのだ。
今日の詩
今日の詩
ずっと言葉を巡らしながらも
立ち止まらずに歩き続けることについて
僕はいつも
理解したいわかりたいと思っている
その理解したいわかりたいって何なのか
それは生きていることを知るために
生き物を解剖する科学者のような態度
だから仮に
理解したわかったと思ったとしても
それは切り刻まれて
死んでしまった死体のように
もぬけのからの抜け殻
生きている今は
「はい、これです!」
と切り取った瞬間に消えてなくなる
知りたいわかりたいという願いが
言葉を使って考え巡らすことでしかないなら
言葉は外科医の握るメスと同じで
それを知るにはおよそ向かない道具
それを使ってできることの可能性は
理解したわかったという瞬間その結論を諦めて
ずっと言葉を巡らしながらも
立ち止まらずに歩き続けること
今日の詩
退場ラッシュ
このところ身近の退場が続く
人生からの退場
退場ラッシュだ
これほど心が震えるのだから
浅からぬ縁だった
それがいい出会いであれ
あまりいいとは言えなくなっていた出会いであれ
僕の記憶の中で
何某かの役柄を演じ
何程かの想いを残していった人が
退場していく
彼らと一緒に作った場面が
燦としてよみがえる
思わず微笑んでしまう
顔をしかめるほかない
赤っ恥をかいた
それぞれの場面
僕は僕で彼は彼で彼女は彼女で
精一杯の舞台だった
そして彼らは退場した
静かに燃え尽きるように
あるいは
吹き消されることを覚悟して
あるいは
突然プチっと断線したように
ノーサイドとなった今は
損得や好き嫌いや良い悪いという
地上の思慮を越えて
目に浮かぶその姿と
しばらく一緒にいよう
今日の詩
アンプラグド
さぁそろそろ線を引っこ抜く時だぜ
四六時中他人と繋がってるなんて
おかしいと思わないか
モニターの向こう側には
いつわりの息遣いをした
ゾンビの群れがいるだけ
呟くようにしか喋れなくなった
上っ面の涙しか知らない
ウソとほんとがわからなくなった連中さ
さぁそろそろ線を引っこ抜く時だぜ
忘れたわけじゃないだろう
誰とも繋がってないたった一人の時があったことを
画面をじっと覗き込んで
いつとは知れない気まぐれな反応を待つうちに
孤独という幸せな時間を忘れそうになってる
思い出すんだ
暖かい笑顔や悲痛に歪んだ表情と一緒に聞こえる声の他は
みんな自分の独り言だったことを
触れ合う指や抱きしめるか細い背中とともに聞こえる声の他は
みんな自分の囁きだったことを
さぁそろそろ線を引っこ抜く時だぜ
淡い期待を引き伸ばして
絶望するチャンスを失わないうちに
今日の詩
ひねくれ者
僕はひねくれ者
だから好きなのは
犬じゃない犬
猫じゃない猫
男らしくない男
でも女だけは
女っぽい女がいい
じゃ、女っぽい女って
どんな女?
そりゃ決まってる
犬じゃない犬のようで
猫じゃない猫のようで
男らしくない男みたいな女さ
今日の詩
ホーカス・ポーカス
「ホーカス・ポーカス」
唱えてごらん
魔法の呪文
「ホーカス・ポーカス」
あらあら不思議
なんでも叶う
「ホーカス・ポーカス」
困った時は
腰振りながら
「ホーカス・ポーカス」
沈んだ心も
なんだかウキウキ
「ホーカス・ポーカス」
あの子に聞いても
この子に聞いても
「ホーカス・ポーカス」
なぜだか知らない
その秘密
「ホーカス・ポーカス」
リズムをつけて
歌うように
「ホーカス・ポーカス」
とにかく信じて
ただ唱える
「ホーカス・ポーカス」
色っぽくでも
厳しくても
「ホーカス・ポーカス」
効き目は保証つき
魔法使いの保証つき
「ホーカス・ポーカス」
ただ一つだけ
ご用心
「ホーカス・ポーカス」
自分のためには使えない
悪だくみには使えない
「ホーカス・ポーカス」
困った困った
困っちゃった
「ホーカス・ポーカス」
でもでも
よくよく考えて
「ホーカス・ポーカス」
これで解決
みんな幸せ
「ホーカス・ポーカス」
よく考えて
みんな幸せ
今日の詩
85パーセント
僕の愛用の掃除機は
充電式でコードがない
軽くて細くて
どこでも手軽に持っていける
ただ一つの欠点と言えば
若干吸引力が弱いことだ
その吸い込み率は
(推定)85パーセント
昔の僕なら
とてもじゃないけど
許せない弱さだ
けれど今はむしろ
それくらいが気に入っている
ホコリの8割がたが
きれいになれば
遠目の掃除は完成だ
世の中のすべてが
神経症みたくなって
やたらきれい好きになっているけれど
僕は至って
いい加減に暮らしている
今日の詩
無題
ネットを開くと
「教えて、〇〇先生」という番組だった
ちょっと興味を惹かれたので
小学生の質問に答える〇〇を見ていた
三つくらいの質問と〇〇の答えを聞いて
我慢できなくなって閉じた
こんな下世話な番組を企画する奴もくだらないし
それを受けて出演する〇〇も同じようにくだらない
誰かのためになると思っているなら
ゴカイもゴカイとんでもないゴカイだ
本当なら〇〇は
俺の話なんて誰のためにもならないヨと
走って逃げるべきだった
ボクなら全く違うことを企画する
誰が見たって、失敗ばかりで金もなければ地位もない
誰もがそうはなりたくないと思う
なのに誰が見たって
ごくごく幸せそうにしているやつを見つけだして
そいつに話を聞くんだ
間違いなく、そいつの話は
あらゆる人にとって
何よりも得難くためになる話に違いない
宝物のような話が聞けるに違いない
この世でいちばんためにならないのは
「成功した」と思っている人間の話だと
どうして誰も気づかないんだろう
今日の詩
そういう存在
朝、窓からさす眩い光に
目が覚めて
朝の空気を吸い込む
階下に降りて
冷たい水で顔を洗い口をゆすぐ
洗濯機を回しながら
ふと思う
この世に
あまねく在るもの
それは空気と水と
そして光だ
おそらく私は
それら空気と水と光が
いくぶんか濃くなった
そういう存在なのだ
今日の詩
愛についての考察
試みに力の反対語を「愛」だとしてみよう
愛は力とは反対の作用を持っている
力は対象に働きかけて
それを変えようとする
愛はそれとは反対に
何も変えようとはしない
愛はただ
物事があるように
それをそのまま受け入れる
愛は力の反対語だから
一切の力を持たない
何も働きかけず
何も変えない
けれども
人は愛を知ると変わる
力を拒むために
得ようとしていた力は
何一つ必要ではなくなるからだ
愛を知った人は
ただありのままに
弱いままでいるようになる