七十爺いがアラフォー息子と同衾す猫三匹もみんなご一緒
明らかに異常な絵柄だ。不道徳でアブノーマルに見えるかもしれない。穢らわしいと感じる人もいるだろう。
このシチュエーションを容易にわかってもらえるとは思わない。
息子には知的障害があって幼児と大人が混在する。この頃はいっぱしの理屈も言う。まるで筋は通っていないが。
夏は暑苦しくてひっつかれるのはごめんだが、冬になると時々深夜自分のベッドを出て、僕の部屋にやってくる。布団の中や上にいる猫たちを押しのけて、ついでに僕も隅に追いやって、彼は布団に入ってくる。そしてすやすやと指を吸いながら眠ってしまう。
僕にはそれに抗う術がない。そのあまりの自然さと当たり前の感覚に思考する力を失って、僕はそれを許す。
ついでに息子と一緒に寝ていた(いつも彼と一緒に寝る)黒猫もやってきて、間に入れろと僕の鼻を引っ掻く。
先に布団の中にいた小夏は低く唸って文句を言うが、ジジはお構いなしに潜り込む。もちろん二人の足元にはライが寝そべっている。
かくして僕の古くなってスプリングがギシギシと音を立てるシングルベッドはウクライナ民話の「てぶくろ」のように「生き物」で満員になる。あったかいことこの上ない。
世の人の数だけ幸せの形がある。
今日の短歌
今日の短詩
指先がぬくいと裸足でも寒くない猫に囲まれ台どこで皿を洗う
目が覚めると布団が重い。猫が全員乗っかっている。7時をすぎているので、大急ぎで階下に降りる。人と猫のトイレを掃除してゴミ出しする。木曜日は「燃えるゴミ」の日だ。
昨日はオンラインじゃない生徒が来る日で、IPadのお絵描きアプリの話で盛り上がって夕飯が遅くなった。洗い物が面倒になって桶に浸けたままにした。
朝のご飯を要求する三匹の猫に囲まれながら皿を洗う。下着のままで降りてきたので裸足の足が冷たかった。
水も冷たい。ちょっとだけタンクのお湯の方の蛇口を開くと、しばらくして湯気と一緒に熱いお湯が出てくる。触れただけでまるで湯船に肩まで浸かったよう。裸足でも平気。
なんだか腰湯をしたくなったので、朝から湯船にお湯を張る。なんという贅沢。
今日の短歌
昔から土曜の昼間が好きだったディズニーランドのある金曜の夜より
小学生の頃の僕は神経質で気が弱くて、引っ込み思案の子どもだった。土曜日が好きだったのは何よりも給食がなかったからだ。
特に好き嫌いがあったわけではないが、人と一緒に食事をするのが苦手で、緊張すると食べ物が喉を通らなくなる。よく5時間目まで残されて、一人給食と格闘するという地獄を味わった。
中学に上がって給食がなくなり、昼食は弁当か業者が売りにくるパンと牛乳になって、僕は救われた。そして、いつの間にか人と食事をするのが苦にならなくなった。
金曜で思い出すのは住んでいた団地の市場前の広場にあったカラーテレビだ。それは昭和の三十年代でおそらくカラーテレビのある家はよほどの金持ちで、むろんその団地にそんな家はなかった。
金曜の夜8時には、街灯のように2メートルほどの高さに設置されたそのカラーテレビの前に団地の家族連れが集まった。隔週で交互にプロレスとディズニーランドをやっていたのだ。僕も父に連れられて、よくディズニーランドを観に行った。
そんな金曜のある夜、事件が起こった。晩御飯を食べてから父と一緒に市場まで行こうと玄関に出た時、何の拍子か父の脇をすり抜けて外に出ようとした僕の左の目に、父のタバコが当たって火傷をしたのだ。幸い火傷は瞳ではなく白眼だったので大したことはなかったのだけれど、それを機に父はパッタリとタバコを吸わなくなった。
「毎日が日曜日」になったはずの今でも、土曜日は何とはなしにウキウキとした気分になる。
明日という日に何も課されたもののない開放感、それはまさしく自由の味わいだった。
今日の短歌
銀杏のごとくになりきそれなりに厚剥きにした霜月の芋
何を隠そう、我が畑(約二畝)は全面「ソバージュ栽培」である。(ところでこの「ソバージュ栽培」というのはミニトマトの栽培に関してどこやらのカンパニーが登録商標としているらしい。そんなことはつゆほども知らず、僕はその響きが気に入って、ずっと自分の畑をソバージュ栽培だ、と言いふらしている。)
ソバージュと言えば思い浮かぶのは鳥の巣のような女性の髪型だ。それは元来「野生的」という意味で、女性の髪についてはわざとそういうふうにワイルドに仕立てるのだろう(が、ちなみに僕は十年来のマンバンで、それは正にほったらかしで伸び放題なのを、適当にゴムでまとめているだけである。)
そういうわけで(?)髪の毛同様、我が畑はほぼほったらかしのソバージュ栽培なのである。里芋の畝も前年に掘り返して小芋を採ったなり、親芋をまたその穴に埋めるだけである。土寄せも何もしないので、できる小芋は至って小さいのだ。でも、美味しいよ!