「ポストカード」
この冬はとても寒かった。特に台所は底冷えがした。改装中で天井が抜けたままになっている。エアコンの温風は剥き出しの天井裏に溜まるばかりで、下は一向に温まらない。
私はテーブルに座ってノートパソコンで日記をつけていた。膝の上の黒猫がノドを鳴らしている。かじかんだ指を猫のおなかの下に埋めながら、私は昼間納戸で見つけた一枚のポストカードに目をやった。
縦横の比率が一対三くらいの横長のカードの周りは茶色く変色している。表には流れる糸のような特徴的な文字で宛名が書かれていた。右三分の一ほどを占める横書きの罫線の上にも、その糸のような文字が並んでいたが、黄ばんで薄くなったそれを判読することはできなかった。一見すると日本語に見えない文字はそこに収まりきらず、カードの右下隅から左下隅へと溢れ出ていた。
それは三十年以上も前に、妻がインドから私に宛てたものだった。意志を表すためには使わない、と決めたようなその筆跡は、まさしく彼女のものだ。
カードを裏返すとセピア色の寝室が写っている。古風なベッドにふくよかな腰つきの女が「着衣のマハ」のように寝そべっていた。彼女はいかにもゆったりとしていて、堂々として勝ち誇っているように見えた。
当時も今も、私の記憶の中の妻は、背ばかりが高くて華奢で骨ばっている。けれども写真の中のふくよかな女は間違いなく妻その人だった。
ポストカードが届いてまもなく、予定から三月も遅れて帰国した彼女は、私に「離婚したい」と告げた。
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セットしたタイマーが、チベタンベルを鳴らして風呂が沸いたことを知らせた。私は膝の猫を床に下ろしてラップトップの画面を閉じ、ため息のように息を吐いた。それは冷たく重い台所の空気で白くなった。
冷え切った身体を熱い湯に埋めて、私はなおも別人のようになった妻の姿を思い浮かべていた。
妻のインド行きは突然降って湧いた椿事ではなかった。あの頃の私たちには何かが起こる必要があって、それを実行したのは私ではなく妻だった。彼女はさらに一歩先に進んだ。
半年ぶりに帰宅して私に離婚を言い渡すと、彼女は再び、今度は七歳の息子を連れてインドに行くと言う。
その言葉を予期していたのかいなかったのか、思い出すことができない。
それはかなり無茶な決断だった。
出産の時の事故で息子には障害があった。月に一度の間隔でてんかんの大発作を起こす。発作は激しい。意識を失い、海老反りになって痙攣し続ける。死を予感させるその様をそばで見ているのは恐ろしかった。発作どめの薬があったが、それで発作が完全に止まるわけではなかった。言葉も環境も違う。事情のわかった病院もない。そんなところに連れて行くなど、正気の沙汰ではなかった。
反対する私には何かが足りなかった。
非常識でおそらくは不道徳でもある妻には力があり、常識的な私はそれに抗うことができなかった。
それ以外に道はない、と信じ切っている彼女に比べて、私は何もかもを疑っているに過ぎなかった。
ひと月ほど経って、おかっぱ頭でガリガリの、まるでキノコのような息子と何かに憑かれたように輝いている妻を、私は空港に送っていった。
息子は何が起こっているのかまるで見当もつかない様子だったが、搭乗ゲートまで来てサヨナラを言うと、ギュッと私にしがみついた。
「できるだけ早く、父さんも行くからね」と当てにならない言葉を並べながら、私は息子を引き剥がすように妻に委ねた。
彼女は「じゃあ」と言うと小さいキノコを引きずってゲートの奥に消えていった。
私は妻が掛けた、あるいは妻本人もそれに掛かっているのかもしれない魔法に気圧されて、感情を失って立ち尽くしていた。
係の女性が、私に代わって白い手袋で目頭を押さえた。
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風呂から出て台所に戻ると、温もった身体が冷え切らないうちに手早く洗い物を済ませ、パソコンとポストカードを抱えて二階の寝室に上がった。やるべきことがあった。
そこにはさっきまで膝の上で寝ていた黒猫と他に三匹の猫たちが、息子のゲンに傅くように彼のベッドの周りに屯している。頭からかぶった布団が寝息で微かに上下している。
ゲンはもうすぐ四十歳になる。彼が中学に上がる頃からずっと二人暮らしだ。
毎日自転車で近くの通所施設に通っている。部屋は千枚を越える映画のチラシのコレクションで足の踏み場もない。
私は脱ぎ散らかされた服とチラシの間を爪立ちして、ゲンのベッドと縦並びになっている自分のベッドに辿り着いた。
妻と息子が滞在していたのはインドの高原地帯にある瞑想を教えるアシュラムだった。
二人が日本を離れて四ヶ月後、私はそこで息子と再会した。彼は生きていた。
着いて二日目にアシュラムのゲートを訪れた時、息子が先に私を見つけた。彼は全速力で走ってきてそのままスピードを緩めずに、ガンッと私にぶつかった。おかっぱ頭をこすりつけながら、これ以上ないくらいの力で抱きついて、聞いたことのない声をあげて笑った。
息子はアシュラムに併設されたキッズコミューンに通っていた。二十人あまりの子どもたちの中でただ一人の日本人だった。言葉は片言しか話せなかったが、それで困ることはなかった。
自分たちのマイクロバスを所有していて、毎日のように近くの湖や河原に遊びに出かける。
コミューンの大人も子供も、みんなが「ゲン、ゲン」と呼びかけ、息子の真似をして左手の親指をチューチューと吸った。そこらじゅうに子どもたちの笑い声が響いている。息子は毎日キッズコミューンに通うのを心待ちにしていた。
息子と私は同じ日にインドの名前をもらった。彼の名は「デヴァ・アロック(聖なる光)」だった。
大理石のホールに集まった百人近い人たちに祝福され、次々と肩車されキスされ抱きしめられながら、息子はもらった名前を叫び続けた。
命が掛かっていることもまた事実だった。
私が息子と暮らした二ヶ月の間に(妻は私がインドに到着してしばらくすると、私に息子を預けてイギリス人のボーイフレンドと旅行に出掛けてしまった。)彼は二度発作を起こした。二度目は麻疹に掛かっている最中のことで、唇はチアノーゼで紫色に膨れあがった。アシュラムで知り合った友人たちが私たちを心配してアパートまで様子を見にきた。彼らは交代で食事を作り部屋を片付け、息子を看病してくれた。
二月後、妻は息子を連れてひと足さきに日本に帰っていった。息子は帰国後、それまで行かなかった学校に行くようになった。
私自身の変化は妻や息子に比べるとずっと緩やかだった。それでも今に至るまで私を支え続けてきたものを、私はそこで与えられた。
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それから五年間、私たちは家族を続けた。
妻の容姿はだんだんと元の痩せぎすに戻っていった。息子が中学生になる頃、彼女はスキャンダラスな事件で世間を賑わしたカルト集団に入った。彼女が私たちを勧誘し、私たちが彼女を引き戻そうとする綱引きが続いたが、一年ほど経ったある日、彼女は家を出ていった。
それ以来もう二十年以上、妻には会っていない。
一年に一度か二度、ハワイや沖縄から教祖の出版物や手紙が送られてきた。私は包みを開くこともせずゴミ箱に捨てた。
それが二週間前のことだ。突然、沖縄の知らない名前の島の知らない名前の男からメールが届いた。
妻が死んだという。
彼女は癌だった。寝たきりになってから、死んだら焼いて骨を私のところに送ってほしい、とその男性に頼んだのだ。
彼女は息子には「愛している」と、私には「ごめんなさい」と言葉を残した。
私は少し迷ってから、妻の骨を引き受けることを承諾する旨、返信した。
数日後、妻の骨が送られてきた。
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私はベッドに座り込んで、ポストカードの妻の写真を、彼女の寝姿の通りにハサミでていねいに切り抜いた。裏側には糸のような文字がところどころに残っている。
切り抜いた写真を持って、私は隣の部屋に行った。黒猫がついてきた。神棚のような白木の簡易な台の上に骨壷の白い包みが置いてあった。包みを解いて骨壷の蓋を取る。砂のような妻の骨が半分くらいまで積もっていた。
私はその砂の上に切り抜いた妻の寝姿を置いて、そっと蓋をした。
短編「ポストカード」
今日の短歌
突然の大粒の雨肩は濡れない麦わら帽子のツバの分だけ
今日の短歌
ぼくはなぜあなたとこうして目が合うとにこりと笑ってしまうのだろう