今日の詩
結論を導くために言葉を使う人へ
言葉は果たして
結論に至るために
目的的な思考のために
使われるのだろうか
僕も含めて
そのように考える人は
言葉を
そのように使おうと
研ぎすまし精密化する
発信者の意図を
できる限り正確に
受信者が受け取るように
言葉という器に
記号的な意味のみを乗せて
それ以外の一切を
盛ることを拒むのだ
ところが
例えば僕が
死んだ妻の母
つまり義母と会話するときなどに
いつも思うのだけれど
僕には
義母の話す言葉の
半分も理解できない
今年九十になる義母は饒舌で
天気の話
近所の人の噂話
主治医の悪口
肉屋の店員の対応の悪さ
などなどなど
後で思い出すと
概ねそんな話をしていたようだけれど
話の前後関係はランダムで
なぜそれを僕に話すのか
僕が目と鼻のついた観葉植物でも
おそらく全く構わなかっただろう
といった内容だ
僕はその会話の間じゅう
ただ「はい」と「なるほど」を
7対3の割合で織り交ぜながら
首を縦に振り続けるのだ
この会話の意味は何か
その目的は何か
それは
「あなた
息子(孫)になんて格好をさせてるの
あなたもまあ
なんでその無精髭を剃らないの
いいかげんそのくたびれた靴は買い換えたらどうなの
ちゃんと食べさせなきゃダメよ
周りの人から笑われないようにね」
と言われつつ
「お義母さん体を大切にね
こうしていつもあなたのことを気にかけてますよ
いつでも電話してくださいね
あなたの孫を連れて
すぐに会いにきますよ」
という思いを伝える
言葉を介したボディランゲージなのだ
だから
僕を含めた結論を導くために言葉を使う人よ
忘れてはいけない
本当の意味は
言葉の外にあって
そちらの意味の方が
表面的な言葉ヅラよりもよほど大切で
世の中の大半の人は
そういうふうに言葉を使うのだ