能力主義
どれほどの深さと
どれほどの強さで
能力主義に毒されているか
あなたは気づいているだろうか
人より優れていることに価値があると
あなたは考えているだろう
美人は得と
あなたは考えているだろう
学歴や家柄、体型や体重
何かが人よりうまかったり
何か人が羨むようなところがあったり
そういうことに価値があると
あなたは考えているだろう
人より健康であること
人より長生きであることに
あなたは価値を見出しているだろう
そういうもの全てを
能力主義という
能力主義はとても歪んだ考え方だ
それは人を人と比べるという
下品さをベースにしている
何を基準にして
人より優れているというのか
人より美しいというのか
誰かより優れていたり
誰かより美しかったり
そんなことにはこれっぽっちも価値はない
優れていることも美しさも
比較の中には存在しない
人を人と比較することから
能力主義が生まれ
効率主義が生まれ
成功主義が生まれる
人より優れるために
人より美しくなるために
人より健康になるために
人より長生きするために
人より金持ちになるために
人より成功するために
人は方法を求め努力する
一刻も早く
そんな無駄はやめることだ
今すぐに
そんな努力を捨てることだ
能力主義から抜け出すのは簡単ではない
人と比較することから解放されるのは簡単ではない
この世のほとんどの大人たちが
(親や教師も含めて、いや、親や教師は特に)
どっぷりと能力主義に浸りきっているから
能力主義に傷つき
効率のみを追いかけ
成功するために努力し
方法を探し求めているから
そんな大人たちの言葉は
なんの参考にもならない
何一つためにならない
そんな大人たちの脅しに屈してはいけない
そんな大人たちの社会が見せる
素敵なもの優れたもの美しいもの
そんなものはみんな偽物だ
抜け出す道はただ一つ
何か夢中になれるものを見つけることだ
本当に夢中になったら
人との比較は消えている
本当に夢中になったら
上手いも下手も関係なくなる
努力なんてどこにもないし
我慢や苦しさもありえない
体は勝手に動く
時間は知らないうちに過ぎている
エネルギーは尽きることなく湧いてくるし
他人の眼差しも気にならなくなる
比較の世界を抜けた時
人はみんな美しくなる
今日の詩
今日の詩
記憶の引き出し
例えばあなたの頭の中に
記憶の引き出しがあるとする
昨日の引き出し
一昨日の引き出し
その引き出しの中は
さらに細かく仕切りがあって
昨日の引き出しには朝8時の仕切り
一昨日の引き出しには夜11時の仕切り
2年前の引き出しもあって
20年前の引き出しもある
みんな細かく細かく仕切りがある
中にはその引き出しを
恐ろしくきっちりと仕切りを入れて
恐ろしく正確に使える人もいる
でもたいていは結構雑に使っている
みんな適当に引き出しを開けて
いい加減に記憶を放り込んでいる
その日付のラベルも
剥がれたりなかったりする
それでもみんな頭の中に
記憶の引き出しがあるんだ
記憶の引き出しには
まだ来ぬ時間の引き出しもある
明日の引き出し
明後日の引き出し
来週の火曜の引き出し
2ヶ月先の引き出し
それにも細かく仕切りを入れて
まだ来ぬ時間を分けている
まだ来ぬ時間の引き出しは
みんな結構きちんと使っていて
明日の9時にどこそこに行くとか
来週の土曜は誰それの誕生日だとか
そうそして
「今」の引き出しもあって
でもたいていの人はほとんど使わない
想像してみてほしい
「時間を持たない人」は
この記憶の引き出しが
一つしかない
彼には
「今」という引き出ししかない
彼はありとあらゆる記憶を
この引き出しに入れている
昔の記憶は
それほど邪魔にならない
ずいぶん昔のことが
でんと手前に居座っていて
そればっかり思い出されて
困ることもあるけれど
普通の人もいい加減に使うから
大した違いはない
想像してみてほしい
「時間を持たない人」は
まだ来ぬ時間も
ここに入れるんだ
周りの人はみんな
「まだ来ぬ時間」の記憶を
やたらと使うから
「時間を持たない人」は
困ったことになっている
周りのみんなとうまくやっていくために
彼の「今」の引き出しは
「まだ来ぬ時間」の記憶でいっぱいだ
それが証拠に
彼はしょっちゅう「いつ?」と聞く
彼の部屋の可愛い女子の写真のカレンダーには
丸や二重丸がたくさんついている
なんとか「まだ来ぬ時間」の記憶を
きちんと分けて使いたいのだけれど
でも実際みんな
「今」の引き出しに入っていて
「時間を持たない人」の「今」の引き出しは
まだ来ぬ時間で溢れそうになっている
今日の詩
結論を導くために言葉を使う人へ
言葉は果たして
結論に至るために
目的的な思考のために
使われるのだろうか
僕も含めて
そのように考える人は
言葉を
そのように使おうと
研ぎすまし精密化する
発信者の意図を
できる限り正確に
受信者が受け取るように
言葉という器に
記号的な意味のみを乗せて
それ以外の一切を
盛ることを拒むのだ
ところが
例えば僕が
死んだ妻の母
つまり義母と会話するときなどに
いつも思うのだけれど
僕には
義母の話す言葉の
半分も理解できない
今年九十になる義母は饒舌で
天気の話
近所の人の噂話
主治医の悪口
肉屋の店員の対応の悪さ
などなどなど
後で思い出すと
概ねそんな話をしていたようだけれど
話の前後関係はランダムで
なぜそれを僕に話すのか
僕が目と鼻のついた観葉植物でも
おそらく全く構わなかっただろう
といった内容だ
僕はその会話の間じゅう
ただ「はい」と「なるほど」を
7対3の割合で織り交ぜながら
首を縦に振り続けるのだ
この会話の意味は何か
その目的は何か
それは
「あなた
息子(孫)になんて格好をさせてるの
あなたもまあ
なんでその無精髭を剃らないの
いいかげんそのくたびれた靴は買い換えたらどうなの
ちゃんと食べさせなきゃダメよ
周りの人から笑われないようにね」
と言われつつ
「お義母さん体を大切にね
こうしていつもあなたのことを気にかけてますよ
いつでも電話してくださいね
あなたの孫を連れて
すぐに会いにきますよ」
という思いを伝える
言葉を介したボディランゲージなのだ
だから
僕を含めた結論を導くために言葉を使う人よ
忘れてはいけない
本当の意味は
言葉の外にあって
そちらの意味の方が
表面的な言葉ヅラよりもよほど大切で
世の中の大半の人は
そういうふうに言葉を使うのだ
今日の詩
焦ることと待つことについて
長い間
時間を持たない人と暮らしてわかったけれど
彼は決して焦らない
それは全く当然で
焦るというのは時間に追われるということで
時間を持たない人が
時間に追われることはないのだ
時間を持たない人は
決して焦らなかったけれど
待つのはとても苦手だった
そもそも彼には
待つということが理解できなかった
それも全く当然で
時間を持たない人には
待たなくてはならない「まだ来ぬ時間」もなかったのだ
ところが時間の檻の中で生きている人の話す言葉の半分は
まだ来ぬ時間でできていて
心も半分
まだ来ぬ時間で埋まっていたから
時間を持たない人は
全くワケがわからないまま
「まだ来ぬ時間」を待つことになった
時間を持たない人は
とても饒舌で
巧みに言葉を話したけれど
いつも「言葉の半分」は
わけが分からないままなのです
今日の詩
赤いという言葉は知っていて
赤い色を知らないように
甘いという言葉は知っていて
甘い味を知らないように
その人は
明日という言葉も
昨日という言葉も知っていて
それをずいぶんと正しく使うこともできて
それでも昨日も明日も知らなかった
その人の前には果てしない広がりがあったし、
その人の後ろも同じようだったけれど
それは時間の箍を外すように
永遠と一瞬を一つにして広がっていた
かたる言葉も全て
まどう心も全て
うつろう時間の牢獄の中にあって
その広がりの中にはなかった
今日の詩
時間を持たない人
あなたは知っているだろうか
時間を持たない人のことを
僕は幸いにも
その人を知っている
永く永くその人と暮らすうちに
僕は気がついた
その人は時間を持たないのだと
初めのうち僕は
いやずいぶん長い間僕は
時間を持たないその人を
ある感覚が失われているのだと思っていた
例えば
味わうことができないとか
飛ぶことができないとか
笑うことができないとか
僕は長い間
時間を持たないことは
一つの欠落だと感じていた
なぜなら
その人はずいぶんと苦しんでいたから
この人の世で
時間を持たないことが
どれほど不都合なことか
その人は時間を持たないことで苦しんでいた
あるとき
僕の中に一つの考えが浮かんだ
僕たちは時間の檻に囚われていて
その人は檻の外にいる
そう考えると
時間を持たないことは
何かの欠落ではなく
むしろ囚われからの自由だった
自由であることで
苦しむ必要はない
僕はそう思うようになった
時間を持たない目でこの世界を眺めてみれば
どれだけこの世界が窮屈なのか分かる
僕は時間を持たないその人が
なぜそれほど苦しむのかが
少しわかるようになった