方法論の限界
方法が通じるのは部分的な状況のみだ。
この生全般において、方法はあり得ない。
なぜなら方法は「よりよく」という矢印を持った動きにしか通用しないからだ。
「よりよく」生きようとし始めた途端、人は迷路に迷い込む。
出口のない迷路だ。
方法とは自分以外のものだ。
よりよく生きようとし始めた人は他人を真似ようとする。
自分以外に理想を載せてしまう。
人は自分ではない誰かさんになろうとし始める。
それは「今」という、これ以外にない瞬間を否定することにつながる。
自分自身の「今」を否定して、人はどこへも行かない。
グルグルと偽りの自分をめぐる周回軌道を回り続ける。
自分自身の「今」を否定してしまった人は、
鏡の写し世である自分の世界を真似ようとする。
そこに模範があると教えられるから。
そこに範とすべき権威があると教えられるから。
そうして人は鏡に映った自分を真似ようとし始める。
実に滑稽で全く的外れに動き始める。
人は「鏡の後追い」という不可能をやり始めるのだ。
この世界を変えることはできない。
ただ自分から動き始めることを学ぶ以外にない。
なんの勝算もなく、予測さえ立たない、
ただ自分の内側に素直に従う動きを始める他ない。
何一つ真似ることなく、純粋に内側に湧くものに従って動いた時、
初めて人生が動き始める。
それは方法ではなく、ただ純粋なリアリティだ。純粋なクリエイティビティだ。
そうして動いた時、そうして生きた時、
人は初めて、
この世界には何一つ変えるべきものなどないことに気づく。
それはただ自らを写す鏡だったのだから。
だから
あなたは間違っている、と教えるものに気をつけなくてはならない。
あなた以外にあなたの模範となるものを説く者を避けなくてはならない。
あなたにあなた以外のものになれと説く者に背かなければならない。
あなたの今を祝福しない者を遠ざけなくてはならない。
今日の詩