今日の詩

2021年5月14日

 アナログ、デジタルの微妙な関係、あるいは文学の存在意味について
 
 我々が(神から?)授かったものであり、この世の意味の全てである生命とは、究極の連続的(アナログな)時間的現象である。そして、人は音楽や舞踊、演劇という時間的な表現を除外すれば、主に(数学を含めて)言葉(記号)という非連続的、離散的な(デジタルな)解釈を通して、今日の(科学)文明を築いてきた。
 離散的な解釈は、どこまで行っても連続的にはならないように見える。だから我々の文明には、真の存在の解明において、その出発点に決定的な弱点があるように見える。つまりそれは使用目的にそぐわない道具の問題であるように見えるのだ。
 
 しかし忘れてならないのは、その「使用目的にそぐわない道具」である言葉に、もう一つの側面があることだ。
 言葉はデジタルな記号であるとともに、「音」という連続的なものでもある。
 我々は言葉を「記号」というデジタルなものとして解釈するとともに、必ず「音」というアナログなものとして受け取る。
 一見、言葉は音を伴わずとも何らかの意味を表しうるように思われるがしかし、如何に黙読という手段を洗練させようとも、我々の脳は最終的に言葉を音として再生し(まさに「再び生まれさせて」)その意味を得る。
 つまり「意味」とはどこまでも連続的なもの、アナログなものなのだ。
 
 考えてみれば、音とは実に不思議な現象だ。音は究極的に「波」というアナログ、連続的な現象なのに、例えば言葉としてデジタル的な機能を持ちうる。音の連続的な変化を我々の脳はデジタルな言葉として扱うことができる。
(言葉を介しない音楽でさえ、「音階」というデジタル化を行なっていると見ることができる。ピアノなどの鍵盤楽器、ギターなどのフレットを持つ弦楽器はある意味デジタルインストゥルメントなのだ。)
 我々の脳は連続という無限の豊かさからデジタルという限定的なブロックを切り取ることができるのだ。
(と同時に、我々の脳は単なるデジタル情報を豊かなアナログ現象に飛躍させる力も持っている。たとえば、単なる静止画の集合であるパラパラ動画はいわゆる「残像現象による錯視」などではなく、デジタルをアナログに飛躍させる脳が振るった「魔法の粉」の為せる技なのだ。)
 その作用が便宜的なものなのか、何らかの必然的過程であるかと言えば、間違いなくそのアナログデジタル変換の総合的なプロセスが、意味の生成において決定的な役割を担っているのだ、と考えざるを得ない。
 さて一見、量子的飛躍(クオンタムリープ)のダウングレード版であるアナログーデジタル変換が意味の生成において決定的な役割を担っているというのは、一体どういうことだろう。
 それはまず、アナログーデジタル変換というダウングレードとデジタルーアナログ変換というアップグレードが、いささかの毀損もなく完璧なプロセスとして機能するという前提が必要だ。
 アナログ的連続はすなわち時間的連続であるから、時間という制約を受けざるを得ない。その制約を乗り越えるために、デジタルへの変換が必要だったと考えてはどうだろうか。
 アナログが生であるようにデジタルは死である。
 デジタルというストップモーションがこの世的な伝達を可能にする。伝達される間、時間の経過はなくそこに断続はない。
 つまりデジタル的な部分というのは本来的に不可視であり、非存在なのだ。
 そのように機能するデジタル的言葉によって、分離された存在である我々は「意味」を共有し、ある意味初めて時間を超えて協働することができる。
 しかし、そのように記号(言葉)が機能するためには、先に書いたように理想的に変換がなされなくてはならないが、それはあくまで理想に過ぎない。
 つまり問題は変換に伴う「毀損」なのだ。
 
 少しでもそれがあれば、そして間違いなくそれは起こってしまうのだが、デジタルは不可視ではなくなり、非存在ではなくなる。
 今日、我々が抱える問題の根っこは全てここにある。
 変換の不備によって、可視となり非存在ではなくなった「デジタル的言葉」が不当に価値化されてしまっている、ということだ。
 
 ここに文学の存在意味がある、と僕は考えている。
 
 その毀損されたアナログとデジタルの無限の乖離に橋を渡そうという営みが、文学である、と定義するのだ。
 

Posted by hasunoza