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「ワンオペ」
 
 ワンオペという言葉を最近知った
 ワンオペレーションを略して「ワンオペ」という
 
 元々は食べ物屋で接客も調理も会計も
 全て一人でやる事を指した言葉だったらしい
 大辞林にはそう書いてあった
 
 しかし近頃は、
 もっぱらワンオペレーション育児、
 つまり周囲からの助けなしに一人で育児をする
 (無論家事全般を含み、多くの場合、
 その担い手は仕事もしている)ことに使われる
 
 そう言えば僕は、
 この20年ほど、ずっとワンオペだった
 
 二人暮らしだったから
 誰の助けもなしに息子を育て、仕事をした
 無論、今もしている
 
 なぜ「今も」なのかと言えば、
 息子には重い知的障害があって、
 間違いなく、彼が独り立ちすることはないからだ
 
 まあ僕が死んだら
 誰かが代わりをやることになるのだけれど
 それまでは当分、僕がやるしかない
 つまりおそらく僕は一生死ぬまでワンオペだ
 
 なにせ僕は彼の父親で
 そういう責任というかなんと言うか
 そういうものがあるということに
 僕は異存がないからだ
 
 カテゴリーで分けるなら
 僕はやや特殊なワンオペの人ということになるだろうが
 その特殊さの程度を測る基準はないし
 そういうふうに言うなら
 ワンオペという言葉も
 各々の特殊さの程度を無視して
 強引に引いた線引きと言えなくもない
 
 ワンオペは
 そりゃあ大変だ、というときに大抵使われる
 
 事実、客観的に見て、
 自転車の前と後ろに幼児を乗せて、
 大量の買い物袋を吊り下げて走る
 たくましいお母さんを想像するし
 
 中には
 ほとんど自分の時間を持てずに
 半ばノイローゼのようになって
 金切声をあげるように
 ツイッターを綴っている人がいることも知っている
 
 そう、僕はワンオペという言葉を
 そういうツイッターのつぶやきで知ったのだ
 
 ようく考えてみると、
 今まで僕は
 そういうふうに自分を見たことがなかった
 
 大変と言えば大変だったし
 今も大変だし
 
 部屋は永遠に片付かない
 ものを整理する気力はなかなか湧かない
 仕事も家事も次から次へとやることばかりがつながっている
 
 いろんな作業は全て道半ばで
 いつになったら終わるやら
 まるで見通しは立たない
 見通しが立つ見通しすら立たない
 
 けれど
 山奥に住んで
 道という道がみんな坂道で
 どこに行くのも
 その道を登ったり降りたり登ったり降りたりして
 暮らしている人が
 そうして暮らすことを大変だとは
 おそらくあまり思わないように
 
 僕も自分の暮らしを
 大変だとか大変でないとか
 そういうふうに考えたことはなかった
 
 むしろ僕は
 片付けられない自分を
 整理下手でダメなやつと思ってきたし
 なかなか外に出られない自分を
 出不精でドメスティックな性格なのだと思ってきた
 
 知るということはおそろしい
 
 僕は「ワンオペ」という言葉を知って
 自分の姿を外から眺めるようになった
 
 貧相で哀れな感じがした
 
 そしておそろしいことに
 そういう境遇ではない人が
「能天気に」あれこれと
 楽しい事を語り、嬉しいことを報告するのを
「能天気だ」と感じるようになった
 
 未開の地に暮らす人が
 文明の光に照らされて
 それまで平穏無事だった日々の暮らしが
 乱れに乱れて
 それまで抱いたことのない欲望に襲われ
 それまで抱いたことのない憧れを持つようになる
 
 ワンオペという言葉を知って
 僕はそういう未開の人の気分になった
 
 ああ恐ろしや恐ろしや
 
 こんな事を書けば
 きっと「能天気な」人たちは
 僕の前ではその「能天気な」口をつぐむだろうし
 僕と僕の息子は
 特別な人たちとして
 真綿で包むように扱われるようになるだろう
 そして、その人たちは心の中で僕を疎ましく感じるだろう
 
 事実、僕の知らないところで(僕の鈍感のせいで)
 僕たちは常にそのように扱われてきたし
 どこか心の底で
 僕自身も
 そのように扱われることを要求してきたのかもしれない
 
 ワンオペという言葉に罪はない
 そういう境遇に置かれて
 苦しんでいる人はいるのだし
 そういう人にはやはり何かの助けは必要なのだし
 
 けれどもやっぱり
 僕は自分のことを
「ワンオペの人」とは思わない
 ワンオペという言葉を知った上で
 自分をそういうふうにカテゴライズしない
 
 そんなことを言い出せば
 みんなみんな
 何かの事情を抱えて、特別に苦しむ人であったり、
 みんな「何かの人」である、という意味で
 どことなく貧相で哀れなのだから。
 
 全部読み返して、
 最後に付け加えるとすれば
 僕が学ぶべきことは
 大変な時には大変だと声をあげて
 助けを求めるようになること
 
 そして大変だ、と声をあげている人には
 自分でできる助けをしたいな 

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 世界中のどこを探したって

 世界中のどこを探したって
 こんな鳴き声でいいのか、と声を詰まらせる鶯はいない
 こんな走り方はおかしくないか、と立ち止まってしまう馬はいない
 こんな飛び方では笑い者になるしかない、と翼を畳む鴉もいない
 
 ただ人間だけが、

 そうして声を押し殺し、正しく走ろうとし、
 笑われるのだけはごめんだ、と世間の目を怖れるのだとしたら
 
 人の未来は暗澹たるものだ
 

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 物書きについて
 
 思うに、優れた物書きとは、日に何万語も湧き出す頭の中のモノローグを、紙の上に記録する難行苦行を達成した人のことを言うのだ。
 その何万語も続くモノローグは、どこの誰にも当たり前に起こっていることで、大抵は大した意味のない、どうでもいい、けれどもその当人にとっては非常に意味のあるゆえに、ひとりでに湧いてくる独り言だ。
 数万人に一人、あるいはもっとひどい苦行者になれば、何億人に一人、そのモノローグを記録する術を身につける。
 
 我々が彼ら物書きの書物を読んで、深く心を動かされたり、時に涙を流したりするのは、彼らの心の声を読んで、自分にとってとても重要な自らの心の声を聞いたように感じるからだ。
 
 言葉の海に浮かび上がり、白い波頭となって語られる物語は、その物語性ゆえに、再び新たな意味を得て、また深い海底に沈んでいく。
 

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 ストーリー、意味、理解について
 
 ストーリーとは話のことだ。
 話には筋書きがある。流れがある。
 流れとは、どこかしら次の展開に必然性が感じられるということだ。
 
 この必然性を感じる仕組みは、
 我々が意味を理解するためになくてならない。
 
 我々の頭脳は広大な言葉の海だ。
 その深い深い奥底で言葉は溶けて消えていく。
 
 言葉が溶けて消えていくために、我々はストーリーを必要としている。
 言葉が溶けて消えていくとき、我々は意味を理解する。
 
 「わかる」とは、我々の内側で、言葉が消えていくことだ。
 
 言葉は消える。
 そして、
 言葉の海の底に沈む「意味という砂つぶ」に変わるのだ。 

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 真顔の猫に
 口を窄めて
 息を吹きかけたら
 
 そんなことするなんて信じられない
 という眼で見つめられて
 
 僕はとんでもなく
 恥ずかしくなった