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凍し夜は猫の添い寝を待ち侘びん抱かれて寝ぬ母なるものに

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朝風呂に寄りて集まる猫に向け心配するなと声かけけり
 
バスタブの淵に座りて一心に濡れたる尻尾振るわせる君
 
覗き込む湯水の神秘限りなしその水晶の瞳に映らん

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朝君は何度も行ってきますとくりかえす早よ行けと返すときあり涙の滲むときあり

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なにが一番うれしいかといって僕が作った飯を君が旨いと平らげるとき

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 ウンサンムショウ
  
 デカプリオくんは
 ユメのなかでユメをみて
 そのユメのなかでユメをみる
 ユメのアカシはまわりつづけるテツノコマ
 
 キアヌくんは
 ユメだったゲンジツからあかいカプセルで
 ほんとうでサイアクのゲンジツにめざめる
 
 なぜかふたりはふたりとも
 ユメのナカでもゲンジツでも
 どこまでいってもジブンのままだ
 
 カタイカタイジブンノママ
 
 ソーシくんが
 ふたりとチョットちがうのは
 チョウチョになってしまうこと
 
 カレにはどっちかわからない
 チョウチョがユメか
 ジブンがユメか
 
 ボクはトキドキおもうんだ
 このゲンジツはユメだって
 
 そこでひとつのギモンがうかぶ
 じゃあだれがこのユメをみてるのか
 このボクというユメをみてるのか
 ボクというユメからさめたときコタエがわかる
 
 これはボクのヨソウだけれど
 めざめたときにきづくとおもう
 ボクはボクではなかったと
 
 アア
 ボクはボクじゃなかった
 
 でもそのときボクはいないのだから
 ボクをおぼえているボクもいなければ
 ボクをわすれるボクもいない
 
 そのときボクは
 ボクのギモンとそのコタエといっしょに
 ウンサンムショウする
 

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 言葉は月を指す指だ
 
 わかっていることとわかっていないことの境目が
 どこにあるかというと
 せいぜいそれは
 わかっていることの方がわかっていないことよりも
 摩擦が大きいということだ
 
 少し滑りを良くすれば
 どっちもわかっていないということがわかる
 
 言葉は月を指す指だ
 どんなに強くこすったところで
 月にとどきはしない

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 2021年1月3日
 
 
 話しかける言葉に意味はないけれど
 
 我が家は息子と僕の二人家族ですが、朝はずいぶんと賑やかです。というのも、息子は近くの障害者施設に通っているのですが、彼を送り出す前にいつも「朝の儀式」をやり終えてから、彼は施設に向かって出発するからです。
 朝の雑事、例えば洗濯を干しながら、洗い物をしながら、時にはベッドに入ったままで、僕は息子と、彼にとってはけっこう意味のある、けれども僕にとってはほとんど意味を伴わない「朝の儀式」をやり取りするのです。 
 
 彼との言葉のやりとりは、なかなかに骨の折れる作業です。
 何がどう「骨が折れる」のか、を言葉で説明するのは簡単ではありません。
 さっき「僕にとってはほとんど意味がない」と書きましたが、それは、彼の言葉は言葉としてちゃんと意味があり、質問の体を成していて、つまり、彼の話し相手としては、一応自分の思考回路を通す必要のある「言葉群」でありながら、けれども、それを「考えること」は、程なく僕にとっては、言葉のゲシュタルト崩壊をもたらす、という意味です。
 しかも、彼はとても意思(?)疎通の巧みな人で、自分の言葉を人に聞かせることに長けています。そして、おそらくこれは僕の想像ですが、怒りであろうとなんであろうと、返事の言葉に心がこもっていないと、決して彼は納得しないのです。
 
 彼の術中にハマると(僕はいつもそれを半ば僕のするべきことと心得て、あえてそれにハマるのですが)僕はいつも、いい加減に答えることはできず、さりとて考える必要はない返事を、彼に対して返し続けることになります。
 こう書き続けても、何が何だか、およそその「骨の折れ」具合を実感することとは程遠いですよね。
 なんなら、彼を二、三日お貸しします。それが分かってもらえる一番確実な方法ですから。
 
 彼が僕に聞くことは(彼の話は9割方、質問です。)5、6種類に限られています。
(今日は)どうするの?
 いつ(施設から)帰ってきたらいい?
(僕が仕事から)帰ってきたら、何するの?
 あと映画のチラシが好きなので、
「いつ映画のチラシ取りに行くの?」というのも、よく聞かれます。
 
 彼は時間の把握が難しいので、何の話題でも「いつ?」が付け加えられます。
 曰く、「いつ帰ってくる?」「いつ(映画に)行ける?」「いつ(何かを)買いに行く?」
 それに対して、明日、とか、何曜日に、とか、後3回寝たら、とか、その時どきに答えることになるのですが、基本的に彼は、その答えの時間的な意味を理解することはないようです。
 つまり彼としては自分が一番聞きたい、分かりたい部分が分からないのです。
 どういうふうに、彼が僕の答えを納得するのかはよくわかりません。
 僕がもう話を打ち切ろうとしている雰囲気を感じて、質問したい気持ちを抑えるのか、なんとなく分かったような気分になるのか、あるいは他の違ったことに気持ちが移ったからか、いずれにしてもそれは少なくとも4、5回、一連の質問が繰り返された後のことです。そして、少し時間が経つと、同じような質問がまた巡ってきます。
 
 そんなわけで、朝は出かける支度をしながら、僕と息子はずっとそのQ&Aの「儀式」をやりとりします。
 
 20年ほど前、僕には再婚を考える相手がいました。
 ある時、おそらく彼女はそういう僕と息子のやりとりの場面を何度も何度も経験した後に、そこでゲシュタルト崩壊したのだと思うのですが、僕と息子と3人で車に乗っていて、後部座席から金切声を上げて、車を止めるように言いました。
「もうやめて!」
 僕の再婚の話はそこで潰えました。
 彼女曰く、息子も息子なら、あなたもあなただ、と。
 
 付け加えておくと、こんなに「骨の折れる間柄」なのですが、ハートに関わるエネルギーの関係としては、彼と僕は、お互いに実に豊かな時間を、いつもいつも過ごしているのです。
 彼女の言った通り、息子も息子なら、僕も僕、なんです。
 
 彼が「ほな、行ってくるわ」と元気よく自転車で施設に出発した後、僕には深い深い静寂が訪れます。
 
 
 

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人生

「今日」とキーボードに刻んでスペースキーを押せば
 7つ目の変換候補に「2021年1月1日」と出る。
 今日は2021年の元旦だ。
 毎年大晦(おおつごもり)の日に、義母が二段重ねの重箱のお節を送ってくれる。
 至ってこだわりがなく、堪え性のない僕たち親子は、今年はもうその晩のうちに、二人であらかたの料理を食ってしまった。
 だから、元旦の朝に食うものがない。
 普段、ほとんど肉魚を食わない僕が、義母が送ってくれる魚介類がメインのお節を食べると、味が濃いこともあって、決まって舌が荒れる。下半身がカイカイになる。
 それと分かっていながら、目の前に並ぶそこそこ値段の張るおせちの重箱を開けると、ついつい箸をすすめてしまい、後でしまったと思う。
 
 そこで僕は思う。(確か去年も思ったと思う。)
 きっと人生のとどのつまりにも、僕は「ついつい」だらけだったその人生を振り返って「しまった」と思うだろうと。


 けれど、それなら僕は、いや俺は、そのやってしまった人生を悔いて死ぬのだろうか。
 いや、決してそうは思わない。何をやってしまおうが、やらずに終わろうが、生きることに成功や失敗はない、と思うから。
 それはぶっつけ本番の舞台なのだから、何をとちろうと何をやらかそうと、それそのものが一つの人生なのだから。
 生きることに目的はない。生きることが目的だったのだから。