奴隷の韻律を超えて、あるいは未来へのメルクマールとして

奴隷の韻律を超えて、あるいは未来へのメルクマールとして
 
 小野十三郎は「短歌的叙情」の中で、徹底的に日本的な(あるいは世界的に)「叙情」を嫌った。
 その「韻律(リズムのようなもの)」の中に奴隷的なものが潜在しているとして。
 それは庶民=大衆を戦争に巻き込み、しかもこぞってその動きに熱狂した日本文化の担い手たちに対する大きな失望をその要因としていただろう。
 無論、彼自身の個人的な生い立ちもそれを過剰にさせただろう。
 
 けれども、吉本隆明が見なしていたように、日本の大衆は遥かに長い歴史の中で為政者という支配層を、それになびき馴致されるようでいて、決して心底絡めとられていたわけではない。
 その心情はまさに「奴隷」のようでありながら、次元の違う部分ではるかに大きなものに属していた。
 それは西欧で育った「個人」という単位で括れない、自他の区別を超えた境地のようなものである。
 
 小野は個人は「憎悪」を焚き木にしなくてはならない、と思っていただろう。それは彼自身の優しい心根の底に巣食っていた「恨み」のようなものに根を下ろしていただろうから、それは彼の生きるエネルギーであると共に、大きな痛みでもあったに違いない。
 彼はその刃の矛先を「短歌的叙情」に向けた。そのリズムにある惚けたような安穏さ、鷹揚さ、広さ、安普請の感動、、、。
 けれども、敵は小野のパンチを受けながら、何一つ疵にはしなかった。
 なぜなら、その底には個人の意志の薄弱さ、浅薄な教養という薄皮に覆われた巨大な無意志の海が広がっていたからだ。
 吉本はそれを「大衆(の自立的課題)」と呼び、そこに時間を超えて通底し、世間的な関係を超越するものを希望として感じていただろう。
 
 我々は「個人」を養わなくてなならない。疵、痛み、感情の歴史と淀みはその心に沈んで積もるからだ。
 けれども我々は「個人を超えたもの」に開かなくてはならない。そこにしか安らぎと許しは根を張れないからだ。

Posted by hasunoza