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 2020年7月3日
 吉本隆明の講演を聞いている。183もの講演がデジタルアーカイブとして保存されているのだ。
 生の吉本の声を聞くことができるのが、思想家のリアリティを受け取れる機会として、著作を目で追うこととはまた別な価値を持っていることを強く感じる。
 おそらくそれは文字に記された思想よりももっと深い理解をもたらす可能性を持っているに違いない。
 語気や間等々、文字面には決して感じることのできない偉大な思想家の思考の流れをそれは伝え遺している。
 
 それにしても吉本がその思想的基盤として持っているマルクスとかヘーゲルとかは、まったくにして僕の思考の基盤ではないことを思い知る。
 それだけに、そういう状況的な違いを超えて、なお普遍的な意味での彼の思想を理解できる貴重な瞬間をもたらしてくれる気がして、その録音に耳を傾けている。
 
 おそらくそれは小野十三郎が「奴隷の韻律」として追求したものと深い関係を持っているのだ、と僕は直感する。特に、吉本が「大衆」という存在を非常に大きく捉え、意識しているところに。
 
 今日は「自立の思想的拠点」と題された講演を聞いた。
 講演の最後で、吉本は皮肉っぽい調子で、いわゆる知識人というものが戦争であれ平和であれ自分自身の表現の砦に座して「スルスル」とその状況をすり抜けてきたことが、今の思想の基盤になっている、つまり「自立」という思想的拠点となっていることを打ち明けている。
 そして目の前の聴衆に向かって、すべての人が知識人であり、そういう危うい位相に存ることを訴えている。
 この主張と小野のあらゆる表現者を敵に回すような、表現の中に潜む「奴隷の韻律」の告発は、やはり深く共通している、と感じた。
 
 それは半世紀の時を経て、今という終末的状況を迎えている世界の中にいる僕にとっても、まったく同じ剣先を突きつけてくる。
 
 僕にとって新鮮でもありまたやや滑稽でもある感じがしたのは、吉本の世界観というものが、如実に世界を「階級的闘争」の現場として見ているというその部分だ。ある意味そういう極めて単純な類型化から(この1960年代という時代において)吉本自身が逃れ出ていないことに、とても不思議な感覚に襲われた。
 今、2020年というまさに大きな時代の終焉と新たな時代への転換点という予感にあふれた時点に生きている僕から見て、そういう階級的闘争のような類型化はまったく古色芬々とした滑稽な世界観でしかあり得ない。
 また、知識人、大衆などという類型化も(もちろん吉本は個人のうちにその両面の要素を見ている訳だけれど)、とても堅苦しく、不自由な感じで受け止めた。
 まるで吉本自身がその硬直した思想に苦しんでいるかのような気分だ。
 講演の中で次第に熱を帯びて、一瞬声を荒げたり、自嘲してみたりする彼の調子に、決して穏やかではない、怒りのような興奮が感じられることに驚いた。
 
 引き続き、彼と共に彼の思想を「苦しんで」みようか、という気分でいる。