小野十三郎の「短歌的叙情」を読んで
2020年6月21日
小野十三郎の「短歌的叙情」読了。
小野の問題意識は短歌ひいては文学全般、そしてさらに芸術を含む人間のあり方全般に広がっている。
短歌も俳句も(俳句はどちらかと言えば、まだ救いのある詩形式と捉えているところもあるようだけれど)ドイツ浪漫派の詩も絵画も全てが「何ものかに憑かれた精神」の現れとして批判される。
それらは「短歌的叙情」「奴隷の韻律」「宗教的オブスキュリティ」と断じられる。
言葉も難しいし、観念自体もやや曖昧な部分がある。
確かなのは、まず小野個人に感覚的な嫌悪感、直感的な拒絶感、(小野はそれを「憎悪」と表現したりする。)がある、ということだ。
巻末の富岡多恵子の「解説」によれば、それは小野の生母との関係が影響しているのかもしれない。
とにかく、小野には「何ものにも憑かれない精神」を表現する詩が理想としてあって、それは、今のところ達成されてはおらず、やがて「リアリストの苛酷な残忍な蓋然性」によって達成されるだろう、という希望(?)があるのだ。
さて、ぼく自身の感想を言うと、小野が「短歌的叙情」として嫌悪する集合意識的な感情(例えて言えば「日本人のこころのふるさと」のようなもの)にぼかしてしまったり、預けてしまうような詠嘆性を、いろいろな場面で、ずっと感じていた。
そういう曖昧さに逃げる感じは、安易に言葉に形容し難い感情や意識を、ずっと抱え続け、ある意味耐え続ける個人の強さにつながらない気がしていた。
もっともっと、共感し難いものを、ぼく自身はずっと抱えているし、おそらくは誰もがそういう孤独を抱えているはずで、それを月並みな共感を誘う感動に貶めたくないと感じ続けていた。
要すれば、ぼくには「わかられてたまるか」というような強がりがあるのだ。
けれども、同時にそういう孤独を持つ個人としての共感はあるだろうし、あってほしいと願いたい。
「決して寄り添うことなどできない」とわかりつつ、「寄り添いたい」と願い続けるように。