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 2020年5月27日
 桑原武夫の「第二芸術」読了。図書館から「現代日本文学体系ー74」を借りてきて読んでいる。並行して、小野十三郎の「奴隷の韻律」も読んでいる。(こちらは小野十三郎著作集の第二巻に収められている「短歌的抒情」の中にある。)内容もさることながら、対照的な二人の文体を楽しんでいる。
 桑原はよく知らない単語がいっぱい出てくる。その度に調べる。(昔はよく大阪の中之島図書館に行って、朝から夕方まで本を読んでいた。そのころは机の傍に辞書を置いて、首っ引きで読んでいたことを思い出す。今は、iPadで辞書もウィキペディアも駆使して目的の言葉をすぐに探し当てることができる。どれだけ時間が節約できるか。僕にとっては理想的な学習環境だ。)
 桑原は語彙的には難しいけれども文章自体は読みやすい。論旨も明確。それに比べると小野のは読みづらい。一文一文が長く、述語(結論)が後に来るので、意図を汲みながら読むのに字面を行きつ戻りつしなくてはいけない。悪文とは言わないけれど、読みにくいというのが実感。
 今、受験生と入試の過去問をやったりしているけれど、小野の文に比べれば、英語の長文もさほど難解に感じない。英語は構造的にまず結論が来るので、そこを読み違うことが少ないからだ。
 でも、読み慣れてくると、小野の文章は重層的で気迫がこもっていて、今まで遠目に感じていた印象とは随分違う。エネルギッシュでなんだか気分が高揚してくるのだ。もっと慣れてくれば、桑原の文よりもずっと深く心に響いてきそうだ。さすが詩人の文章だと感じる。
 まだ、両方とも自分の中でこれでオーケーというところまで読めていない。桑原の方は時系列に並んでいるいくつかの前後の文章が面白そうでそちらも読んでいる。「第二芸術」の前が「三好達治くんへの手紙」でこれは読了。改めて三好を読み直そうと思った。後ろは「芭蕉について」でこれは自分の芭蕉の知識ともつながってとても面白い。ちょっとしばらく桑原武夫を読み込みたい気分だ。
 小野の「短歌的抒情」も随分と読み応えがある。
 二人の短歌や短歌周辺への考え、姿勢には随分と違いがあって、桑原の主旨は僕の感じていたものと割と重なっていた。短歌そのものの文学的位置づけや価値についてはさておき、その短さからどうしても詩自体よりもその背景(詠んだ人、その人の組織内での立場等々)が、詩の価値に大きく影響することを問題にしているのだ。だから、短歌や俳句は短歌界、俳句閥という背景を作りもし、そしてそれに支えられもしている。
 桑原の「第二芸術」は大きな波紋を起こしたわけで、引き続き歌人や俳人の反論というか、文章を読んで見る他ない。
 一方、小野の「奴隷の韻律」は思っていたよりもずっとずっと根が深い。桑原の文章は短歌一般、俳句一般、短歌界、俳句界をその対象として書かれている。けれども、小野の文章はこれはもう、日本の文学界全体を敵に回すような文章だ。そして、ある意味僕は非常な共感を持って今、小野の文章を読み進めている。
 日本人の文章の中に「短歌的抒情」が蔓延しているとすれば、それは短歌や俳句という定形短詩のスタイルがもたらしたものではないということになる。むしろその言葉の少なさ、言外に託すスタイルが日本人の心の性根に「奴隷」が潜んでいるということを露呈させている、ということだ。
 小野はまだ途中だ。ワクワクしながら読んでいる。

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